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 見えないところで他の誰かを支え続ける
一番の働き者という意味の『縁の下の力持ち』という諺があります。
これもまた非常にメジャーで日常会話でしばしばでてくる程の人気者であることは
もう一々調査するまでもないだろうと思います。

 でも、縁の下の力持ちって
よく家を下で支えてるでっかい石とかが例えられますが、
そもそもじゃあその石が地面にまた支えられているという
こともまた事実な訳です。
でも、人間って地面っていう最も重要な真実の縁の下の力持ちには
ほとんどって言っていいほど目を向けませんよね。

 人間関係でも、たまに「彼は縁の下の力持ちだよね」とか
「君は縁の下の力持ちタイプだから」とかでたりしたりするかも知れませんが。
間違いなくその『彼』や『君』は真実の縁の下の力持ちではありません。
なぜなら周りにそう認識されてますから。
完全に縁の下からひょっこり顔を出してますから。
ほんとうの縁の下の力持ちは主張しませんし、
誰も目を向けません。
本当、人間は支えあってなんか居ませんよね、
支えてる人と支えられてる人がしっかりしてます。

 まぁ、支えあうよりかはむしろバランスがいいんじゃないかと自分は思いますけどね。
支えあってる二人の人間が同時に体勢を崩したらどうするんだって話じゃないですか、
二人そろって倒れるか、片方が手を離して生き残るかでしょう?
なら役割分担したほうが安定してると私は思います。
といっても支えるほうにしてみれば溜まったもんじゃないですけどね。
本当に疲れたら、支えてる人間を捨てちゃえばいいんじゃないですか?
ずっと支えられてる人間にはどうこういう権利はありませんし、
支えあってる時よりいざこざも起き難い気がします。

 と、話が脱線してます。
えぇと縁の下の力持ち。
結局地面というのは規模が大きすぎるというか、
目に入らないんでしょうね、近すぎて。
距離を置いてみて初めてわかるっていうのは当然のこと。
背負われてばかりいれば見えるのは相手の顔とかその辺りだけ、
脚がどれほど傷付いているかは背負われてる側には見えません。
見えるのは、背中から降りて少し離れたときだけ。

 なら地球を離れて全貌を見てみようと思ったところで
とりあえず大気圏突破しないとわかりませんしね。
というか、球体は全貌を一見できるはずがありませんか、そうでした。
地球はどんなにがんばっても球である限り労わられることはなさそうです。
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 小さな事でも積み重ねれば大きくなる。
小さな努力を積み重ねれば大成出来る。
そんな感じで使われる諺で『塵も積もれば山となる』って言葉があります。
この言葉、正直知らない人のほうが少ないだろう
相当メジャーな諺であることは誰に確認するまでもない事だろうと思いますが。
正直私はこの諺があまり好きではありません。

 だって、塵ってそもそも積もらないじゃないですか。
人の一挙一動で起こる微か過ぎる風とも言えない空気の流れにすら飛ばされる塵、
基本的には積もりません。積もるはずがありません。
だって、塵ですから。

 まぁ、それでも時間をかければあまり人の目に付かない所には、
そりゃ積もります。
いきなり前言撤回ですけど、まぁ積もります。

 でも、山にはなりませんよね?
雪と同じ、嵩になるだけで、それは山とは呼びません。
それはただの層です。
そしてどんなに積もったところで指先であっという間に蹴散らされます。

 塵なんてそうそう積もりませんし、仮に積もったところで山にもならない。
そんなもんです。

 だって塵の山なんて見たことありますか?
自然の塵の山を。
私は無いです。多分これからもないでしょう。
もしかしたら「私は見たことある」っていう人も中には居るかもしれませんが、
きっとそれは人為的な何かが加わって作られた山に過ぎません。
隅に溜まってる埃は、あれも山じゃなくて坂って感じです。

 とかなんとか、細々がんばってる人を一蹴するような
長い間培われた諺を否定することを言うと絶対に
『屁理屈だ』とか『この諺はそういうことを言ってるんじゃない』とか
そんな風な批判も来るでしょうけど。
でも、実際努力に関してもそうでしょう?
ゲームじゃないんだから、お城の周りのスライムだけを倒して
レベルを100にするなんてできっこないんです。
小学校の算数をいくら勉強したところで、
その人が微分積分を解けるようになる日は来ないでしょう。

 山を作るには塵だけでなく、
ある程度塵が溜まったら今度は小さな砂粒で、
それが溜まったら小石で、砂利で、
ゆっくりと大きくしていかなければ到底山にはなりません。
塵だけを積み重ねて山を作ろうなんて土台無理な話なんです。
植物だけじゃピラミッドはできないんです

 なので、努力は必ず報われるなんてのも嘘だろうと自分は思います。
報われた方々が振り返る過去の積み重ねが努力と呼ばれるだけです、
それ以外の方々のくじけた行動は、努力以外の何かです。
多分、それが塵と呼ばれる物なんでしょう。

 ま、その塵が誰かの土台になるかも知れないんで
そこはよかったですねと言う感じですね。
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 知は力という言葉は結構誰でも知ってるメジャーな物だと思います。
実際知力というのはどんな場面でも求められます、
種類や方向性は違えど知識というのは基本あって困るものではありません。
けれどそれがイコールで“賢い”という訳でもまたありません。
知識が膨大なだけではただの頭でっかちになりがちですし、
当然ながら知識や経験というものは過去の事象から得た物ですので
そこにしがみ付いていては失敗の確立は減らせはするもののそれ以上は見込めません。

 発想力、柔軟性、探究心、想像力、独創性、好奇心。
そういったものはいつの時代も知識が少なく先入観の持たない子供の方が持っています。
問題なのは知識ではなく知恵だということです、
物事を一辺倒に知識に偏った思考で見据えるのではなく
時に自分を、時に事象を傾けて様々な方向から見るべきなんだと思います。

 と言いはしますが、
実の所、私は人間のより新しく、より高みへという
そういった感性というか感情というか、感覚が理解できないというか
基本あまりそういった何でも今以上を求める流れを嫌悪する立ち位置に居ます。
知は力と言っても、無知の知という言葉もありますし。
知らぬが仏という言葉も存在します。

 正直顔ダニの存在なんて死ぬまで知りたくなかったし、
トイレットペーパーを引き出すときにどれほどの塵が舞うのかとか
浴槽にどれだけの雑菌が存在してるのかとか、本当に知りたくなかったです。
知ったところで対処する術も無く、しかしその行為を停止する事もできないのなら
最初から知る必要なんてないでしょう。
だって知らずに問題がなかったことなんですから、
知ったところでなにも変わりません。

 確かにそれを発見した人は賞賛を受けるべきでしょう。
所謂第一発見者なのですから、それはまぁ凄いことですし、
見つけた以上は誰かに知らせて自分の凄さを誇示したいというのも理解できます。
けれどそこで終わりじゃありません。
物語なら労力と時間と金と運のどれかをそれなりに使って
大発見をして、そして賞を貰って喜ばしく終わるかもしれませんが、
そこからが実際の問題なわけで、
それを知った性で一々なにかをするたびに不快な気分になりつつ、
しかしそれを感受しなくてはならない私みたいなのがいると思うんですよ。
本当、顔ダニ見つけた人には賞賛の言葉を蹴りにのせて二,三度送りたいと思います。

 まぁそれは個人的なあれと置いておいて。
事実昨今の一般家庭内での菌とか、汚れとか、
その手の事に対しての反応が過敏すぎるというか過剰すぎるというか。
いまの子供達は泥んこになって遊ぶということをしないですよね、
それはゲームの所為もあるかも知れませんが。
食べ物に一生摂取し続けたところで問題にならない程度の微量な薬物反応がでただけで
喧々囂々と騒ぎ立てたり。

 個人的に言わせて貰えば蒟蒻ゼリーは丸侭子供に食わせた親が馬鹿なだけだし
そもそもなぜ蒟蒻ゼリーが販売停止になってお餅はあれだけ毎年死者をだしてるのに
販売停止になったりしないのだろうか。とかも思います。

 なんだか脱線しすぎて訳がわからなくなりましたが。
多分言いたいことは言った気がします。
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